障害を受け入れる親。そして周囲の気持ちとことば
今日は幼稚園の行事があったので、にゃあといーちゃんをひとりで園に連れていった。
最近ママ離れができず、すぐに泣いてしまうにゃあは、先生やお友達を見ても表情をかたくして、ちょっと手を離すと案の定泣くばかり。
屋台のジュースやお菓子を食べるときだけは、にこにこだった。
わたしもお祭りの雰囲気そのものは楽しんだものの、ひとつひとつの場面でにゃあのぐずりだす様子を目の当たりにしては、心の中で小さくため息をついていた。
お友達に頂いたかわいい甚平を着ていたので、その写真を実家家族にラインで報告。
そのついでに、最近のにゃあについて思うことも、書き添えた。
これまでも発達の心配については、その都度話したり、相談したりしてきたが、まだ確定的なことは口にしたことがない。
これについては少し前までの夫も同じで、なんとか現状を受け入れようとはしているが、
「まあでもいつかは、きっと追いつく…」と心のどこかで思っていると思う。
私の父からの返事にはこう書いてあった。
「にゃあちゃんがゆっくり歩くなら、じーじもにゃあちゃんとゆっくり歩きます」
なんてあったかい言葉だろうか。
どれだけの言葉や涙を飲み込んで、この言葉を送ってくれたのだろうか。
いくら感謝してもしたりない。
それから私の母も、妹も、にゃあをどれだけ大事に思っているかをさりげない言葉で伝えてくれた。
こんなにもあたたかな気持ちでいてくれる応援隊がいる。
母親である私自身が、今、自分の中の偏見や葛藤と戦っている。
きっとこれから長く続く戦いだ。
この重荷にふと負けて、にゃあをしかりつけるときに、侮辱的な言葉を使ってしまったことがある。
不安や疑問や、やるせない気持ちをぶつけたくなるときもあるが、その中には超えてはならない一線もある。
文字にして、だれかに伝えて、もしその言葉を将来のにゃあが見たら?
自分が親にそんなことを言われたとしたら?
そう想像すると、耐えられる。
親であることは、思っていたよりも自分を鍛えてくれて、自分を見つめなおさせられることだ。
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